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コラム

2006年05月20日

第08話『オマエノ ナマエハ キョウカラ“マット”ダ!!』

マリストの同級生トミー君がラスベガスへ帰っていった。ゴッツイ遠い所へ転校しよるナァ、さすがやナァと。そのトミー君との文通が始まり、ネバダ州の公立高校は授業料が無料で、そしてそして、考えられないことに、なんと観光ビザでも、保証人さえいれば入学OKということがわかってきた。

 このオイシイ話に飛びつかないワケがない。この日からなんとか親を説得する史上最大の作戦(?)が開始されました。
 トミー君の父上は「保証人になったるでぇ」と快くOKしてくれました。しかし当時1ドルは360円。下宿代を安くしてもらってもやっぱり高い。オマケに飛行機代が、伊丹−羽田−ホノルル−LA−ラスベガスの往復で30万円強。(直行便はなかったし、H.I.S.はもちろんなかった!)これはアウトやろなと思ってましたが、父ががんばって魚を多めに売って(??)なんとか行かせてもらえることになりました。

 生まれて初めて乗ったジャンボジェットは、そら華やかで桜の花の中にいるようなムード。機内食もおいしかったし、飛行機が大好きになりました。

 そしてホノルルへ無事到着。2泊しました。ここでもマリストの友人テッド君の学校の寮にもぐりこませてもらいました。
 もちろんハワイは初めて。そして一瞬にして大好きになってしまった。もうラスベガス行かんでええんでないか〜ちゅうぐらいええ所でした。ワイキキの大通りには提灯がいっぱいぶらさがっていて、古いええハワイを体験できて、ホンマ良かったです。
 そのハワイで買ったストラトの話は次の回に書くとして、生まれて初めての連発が続きます。マクドナルドの魚のフライとチーズのはさまったパンのうまかったこと。ダイエットコーラも薄くてうまかった。サイミンもうまかったのかまずかったのか、もう夢の中の2日間でした。

 そしてついにラスベガス到着。空港には懐かしい顔…トミー君、父上、そして妹のキャシーさんも来てくれた。いやいやゴッツイ遠いところまで来たもんや。ラスベガスも今のようなド派手なところではなく、ちょっとさびれた歓楽街のような風情でありました。

 次の日、早速ランチョウハイスクールで入学手続き。イッパツOKで、その日から早速授業。この高校は巨大ハイスクールで、1日2部制、僕は午後の部に転入。12時から5時までという楽勝パターンの学校生活が始まりました。
 生徒数約4千人、うち日本語を話すのは僕・トミー・キャシーの3人だけという、それはオソロシイほどアメリカやった。しかし、マリストに比べて勉強がカンタン。多少は英語もわかるようになっていたので、授業にはなんとかついていけました。


ランチョウハイスクール校門前と砂漠のど真ん中で
20060520-01.jpg

 しかし、困ったことが勃発。僕のことをみんなが“MATT(マット)”と呼び出したのです。「ちょっと待ってくれ、ボクはマットでもソファーでもないぞ」と言いたかったが、時すでに遅し。あきらめてマットに変身しました。

 2週間ほどたったある夜、マットは突然ゴッツイ咳の発作に襲われました。喘息なんかなかったはずやのに、いきなりの発作にびびりまくり。このラスベガスの気候が体に合ってないという診断。なにしろ夜はメチャ寒で、昼間は道路でステーキが焼けるような砂漠のど真ん中。協議の結果、ラスベガスでの学校生活を断念する事に。
 しかし、一体どのツラさげて神戸へ帰る?何かええ方法はないか?トミーとも相談して、答えが出ました。そうや“ハワイへ行こう”。こうして、ラスベガス滞在わずか1ヶ月にして、ハワイへ逆戻り。

 またもやここで問題が!!アメリカは州によって法律が異なり、ハワイ州では学生ビザがないことにはどないもならんことが判明。

 しかし世の中捨てたもんやなかった。母親の宝塚時代の同級生がホノルルに住んでおられることを知り、失礼を承知でアポなし訪問。事情を説明したら、なんとありがたいことに保証人を引き受けてくださった。
 このおかげをもって、ルーズベルトハイスクールという高校に転入できることになり、天国のようなハワイでの生活が始まりました。
 喘息はすぐに治り、水がうまい・メシがうまい・空気がうまいの3点セットに超満足。学校もええ感じで友人もすぐにでき、毎日25セントの給食を2セット食ってました(この頃からちょっと太りだした…ワッハッハ)。

 そして、今度のニックネームは“サカナ”。実家が魚屋やからというレベルの発想からのネーミングに、さすがに勘弁してくれ!!と。その後“ヨシ”に名前は変更され、穏やかで素晴らしい日々が過ぎていくことになります・・・??

2006年05月13日

第07話 『魚屋の息子、英語でフランス語の授業を受ける』

中学を卒業し、なんとか高校へ進学しました。が、自分の中で「何かが違う、何かが違う」の日々が続いていました。
 例えば髪の毛のこと。子供も、大人も、グループサウンズ(?)も、そして、一部の高校生も髪伸ばしてええのに、なんで僕らんとこは丸坊主やないとあかんのか、素朴な疑問でした。

 その頃、僕は“瘍”(「よう」=オデキのきついヤツ)が頭や顔にたくさんできて、散髪もできないほどひどくなった。しかしこれが逆にラッキーで、結局自然に髪を伸ばすことができてしまった。
 が、長髪禁止の学校が許してくれるわけもなく、協議の結果、病院で包帯を巻いてもらって隠せということになり、頭がフランケンシュタイン的生活を強いられることとなった。
 そのうち瘍も治りはじめ、お医者様も「そろそろ包帯とって散髪していいヨー」と言い、メデタシメデタシなんやろけど、いやちょっと、それは困った。僕は言いました。
「なんとかずっと包帯を巻いとってもらえませんでしょうか?」
 しかしお医者さんもインチキはでけへん。しゃあないので薬局に行き、大量に包帯を購入し、自分で包帯をまいてまだ治っていないことにして登校していました。
 しかしそんな愚かな作戦がいつまでも通じるワケもなく、職員室に呼ばれ、「松浦、オマエ、何考えてんねん。包帯のこと、学校中でバレバレや。ええかげん散髪してくれ!!」とお願いされちゃったりして、先生も気苦労が多いんやなと思いましたが、これだけは譲れません。「まだ完治してないのです。」とウソをつき、その場を切り抜け、フランケンを続けました。

 次の年の1月、髪の問題とは全く違う理由でマリスト国際学校へ転校。
 この学校は、全ての授業を英語で行うインターナショナルスクールでした。平成の世においては多くの日本のお子さんが国際学校へ通う時代になりましたが、当時としてはそれはそれは珍しいことで、「なんで魚屋の息子が横文字の学校行ってんねんやろうか?」と言われたもんです。

 入学当初は特別英語クラスでの特訓、まさに英語漬け。そして9月、いよいよ新学期が始まり、僕は7年生(小学校6年+中学1年)に。「チョットマッテクダサイ、ボクハ10ネンセイ(小学校6年+中学3年+高校1年)デス!!」…そうなんです。英語力がない子は中1にあたる7年生からやり直し。そんな7年生でも始めはついていくのが精一杯。
 しかし、「また中1からかいな」と悲観するかと思いきや、厳しいけれど自由な校風に馴染みまくり、先輩・後輩の変なしきたりのない世界がいかに美しいかを知ることに。そして次の年には1年飛び級して9年生になり、一瞬順調やなと思いました。

 ところがそれがドッコイ、まず日本の学校と解き方がちがう幾何学、科学も記号1つ覚えるのに四苦八苦。そして極めつけはフランス語です。アンドゥートロワも数えられないまま授業に突入し、それも英語での授業やからチンプンカンプン。どっちが英語かフランス語かもわからん時もあった。先生もさすがにお手上げで、1ヶ月ほどでそのクラスをクビになって「ニホンゴノクラス イキナサイ」ということに。
 しかしこっちはこっちでシビレタで。教科書は小学校低学年のもので(このクラスも英語で日本語を教えるねんで)、さすがにこのJAPANESEだけはいつも通信簿はA。そんなジグザグした学校生活でした。

 ここで話も飛び級しますが、一番楽しみやったのが金曜日のダンスパーティ。髪は十分伸びたし、金曜日の夕方が待ち遠しくて。

 神戸にはもう一校「カナディアンアカデミー(CA)」という国際学校があり(ドイツ学校もあるで)、そのCAでのパーティで大村憲司さんのギターを初めて聴き「これは僕もやらんといかんナァ!!」と一発奮起したのです。大村さんは黒のレスポールカスタムを抱え、それはそれはカッコ良かった。司会の生徒さんが「フィルモアでライヴやってきたケンジ」と紹介。いやいや昔からゴッツイ人やったんです。

 そのパーティの日を機に、バンドの猛練習が始まりました。ドラムの細田君、ベースの炭谷カメ君と、ホンマ何もわからんなりにようやったと思います。その結果、ダンスパーティにも呼ばれるようになり、みんな楽しそうに踊ってくれるし、バンドやってるのが楽しくてしゃあなかったナァ。
 バンドの練習もやけど、個人練習もせなあかんので、そのうち学校をサボるようになり、金曜だけ登校して夜のパーティに出るというパターンに。そんなパーティのある日、ブラザーマシュー校長先生にえらい怒られた。「エイゴ シャベレナイヒト バンドダメ!!」・・・あっちゃー、でも、ごもっともでございます。

 実際、英語は中途半端になってしまったけれど、マリストに入学したおかげで、バンドはハンパにならなかった。僕にとってはどんなに素晴らしい芸術大学を出るより誇りに思える「マリスト国際学校」であります。

2006年04月10日

第06話 『1970年のコンニチワ』

大阪で日本万国博覧会が開催されました。終戦から25年、日本にとってホンマに明るい時代がやって来ました。

 僕も明るくトリオバンドを結成。国際学校のダンスパーティや、ヤマハの5階で行われるアマチュアコンテストによく出ていました。
 レパートリーはというと、レッドツェッペリン、グランドファンクレイルロード、ジミ・ヘンドリックスというあたり。みんながたどったのと同じ道でした。 特に好きやったバンドはツェッペリンとフリー。ポール・コゾフのギターがたまらなく好きでした。

【好きやった曲ベスト3】
1.リビングラビングメイド/レッドツェッペリン
2.影をふんで/フリー
3.腹黒い女/オールマンブラザーズバンド

 当時は邦題がついてる曲が多く、直訳もろのもあったし、全然ちゃうオシャレなタイトルのもありました。 例えばシカゴの“25 or 6 to 4”が“長い夜”など、夢も希望もあったええ時代でした。

 それで、万博。

 どこのパビリオンかは今となっては思い出せないのですが、打ち上げパーティのライヴを頼まれまして、港楽器社からアンプをレンタルついでに軽四も借りて、到着しました万博会場。ところが万博はもう終わっていたので、祭りの後の静けさというか、兵(つわもの)どもの夢のあとと申しますか、もぬけの殻の会場。その上夕方に着いたので、それは寂しい万博でありました。

 楽器をセットし、パーティは粛々と始まりました。そしていよいよ僕らの出番とあいなり、何曲か演奏をし、みなさん盛り上がってきました。

 ここで、ジミヘンの“紫の煙”。ジミヘンをやるのはこの日が初めてやったので、ドキドキしながら始めたんですが、何か変や。アンプがブツブツいってる。ブツブツがバツバツになり、バリバリに変わり、ガーッと絶叫してその上煙を出しだした。

 これにてライヴ終了。音が出ないのはどうしょうもなく、主催の方も「仕方ないネェー」ということで、ゴチソウをよばれて、帰途につきました。
 色々なパーティやコンテストに出ましたが、アンプから煙が出たんはこのとき1回こっきり。それも“紫の煙”の最中(さいちゅう←もなかではない)やなんてシャレがきつすぎました。

 万博事件と前後して、三ノ宮のプールで開かれたアマチュアロックコンテストで見事2位に輝いたこともありました。
 ところが思い出せないことがあるのです。バンドの名前です。どんなバンド名でライヴに出てたのかがサッパリ思い出せません。桂三枝のヤングタウンというラジオにも出たのに、いっこうに思い出せん。そろそろ始まってきたかもアルツハイマー。いやいや困ったもんです。

 このコラムを書き始めてから、断片的に色んなことを思い出しつつ書き進めてるワケでありますが、まだ16才までしかきていない。36年分思い出すのに、やれやれ、あとどのくらいかかるのやら。

2006年04月02日

第05話 『テレキャスター?エスクワイヤー?』

初めて買ったエレキギターはビクター製で、ビザールもええとこの6,980円でした。

 テレビで観るグループサウンズは、様々なギターを使っていました。リッケンバッカーに似たハニーやメーカー名もわからないものが多かったと思います。
そんな中、ジャガーズには2人のギターがいて、ある番組(多分「ヤング720」)で2人がおそろいの白いかっこええギターを弾いているのをみて、イッパツで持っていかれました。

 その日以来欲しくて欲しくて、三宮にあるアオイ楽器においてあると聞いて、早速見に行きました。 そのギターは赤色(キャンディアップルレッド)で、ビグスビーのようなアームがついていて、ヘッドに「ELK」とありました。
 当然ジャガーズのギターがフェンダー製であることなど知る由もなく、36,000円を2割引にて購入。このギターは一流品?で、「エルク・カトラス」という名前でした。 (→第1話の写真を見てください)ゴッツイゴキゲンに弾いていましたが、ある時これがコピー物ということを知り、メチャショック。色は違うけどジャガーズといっしょやと思っとったのに。しかし1年以上使いました。

 で、本題はここから。

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2006年03月24日

第04話 『ゴールデンカップスとハンバーグランチ』

またまた中3のとある土曜日の午後、今度は坂根君と一緒にミナミのナンバ一番というジャズ喫茶までゴールデンカップスを観に行こうということになり、まずは梅田で腹ごしらえにと140円のハンバーグランチを食べ、いざ会場へ。

ナンバ一番は薄暗いビルの中にあり、意外と地味で、開演30分前にもかかわらず人気(ひとけ)が少ないのにちょっと不安になりつつ、キップを買わなあかんのでキップ売り場へ。
そこには小さなハリガミがしてあり『本日のゴールデンカップスの公演は中止になりました。代わりにザ・ダイナマイツが出演します』となってました。
「これはえらいこっちゃ、どないしてくれんねん」と叫んでも後の祭り。
結局ザ・ダイナマイツを観ることにしました。

このときのギターが山口富士夫さんだったことは後日知ることになるのですが、初めて聴く外国っぽいサウンドは、カップスショックを十分忘れさせてくれるものでありました。
「トンネルぬけてー」という曲のこの言葉がずっと耳に残っています。

10年ほど前、元ゴールデンカップスのルイズルイス加部さんとセッションした時、「なんであの時ナンバ一番キャンセルしたん?」と質問したところ、当たり前といえば当たり前なんですが、「そんなの覚えてるわけないじゃん」と言うてはりました。

加部さんのギターはゴッツイですよー。何度か一緒にやらせてもらったけど、天才や思います。あんな音誰にも出されへんです。ベースもスゴイけどギターもスゴイ。機会があったら是非聴きに行ってください。

ということで、ライヴも終わり帰途についたのですが、どうも気持ちが悪くなってきました。熱もちょっとあるようで、家にたどり着いたときには立派な病人に成長してました。
またまた松井先生(→第2話参照)の登場です。
食中毒ということで、上から下から右から左からそれはもう大変で、ツライ数日を過ごすことになりました。

それから数年間、練り製品(ハンバーグ・シュウマイ・豚まん・ワンタン等)は食べられなくなってしまいました。
アメリカのマクドナルドの牛肉100%のパテのおかげで、ハンバーグはOKになりましたが、今でも豚の練り製品はあまり好きではありません。
横浜名物のシュウマイ弁当を新幹線の横の席で食べられると、僕は席を移動せざるをえません。
シュウマイには何の恨みもないんですが、あの時のハンバーグはシュウマイに近かった?・・・のかもしれません。

サメちゃん(元ツイストのベースで大の仲良し)は、ツアーの時、新横浜から来る僕の携帯に「シュウマイ弁当買って来てぇや」と連絡を何度かしてきましたが、そのリクエストにこたえたことは一度もありません。「売り切れ」とかテキトウに答えてました。この場を借りておわびします。

The Sons(サメちゃんがやっているバンド)は、4月からツアーだそうです。
サメちゃん、シュウマイ弁当食べてガンバレ!!

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